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2025/09/13 11:27
今回は、現代のお米のルーツともいえる品種「亀の尾」の物語です。
一人の農民の運命的な発見が、どのようにして日本の稲作を変えたのか。皆さんと一緒に辿ってみたいと思います。

発見と誕生
明治26年(1893年)。山形県庄内地方は、その年深刻な冷害に見舞われていました。稲は青いまま実らず、農民たちの顔には絶望の色が濃く浮かんでいました。そんな中、余目町(現在の庄内町)小出新田に住む26歳の青年農民、阿部亀治は仲間と共に立谷沢村の熊谷神社へ参詣に向かいました。
神社への道すがら、亀治の目に一つの光景が飛び込んできました。冷害で倒伏し、青立ちした稲田の中に、水口(みなくち)に植えられた冷立稲*の一角だけが、なぜか黄金色に実っていることに気がつきます。それも、たった三本の稲穂が。
*冷立稲(ひやたちいね)は、冷水が流れる水源の近くなど、低温に強い稲作品種のことを指します。冷害が常習する地域で、冷害に負けずに育つように特別に選抜されたり、品種改良されたりしたものです。
この時植えられていたのは、在来品種「惣兵衛早生」です。
寒さに強いはずの冷立稲ですら青立ちしている中で、この三本だけが見事に稔っている。これは偶然ではない、何か特別な性質を持った稲に違いない―亀治はそう直感しました。
亀治は田んぼの持ち主に事情を話し、その三本の稲穂を分けてもらいました。大切に抜き取り、宝物のように持ち帰ったのです。この時の亀治の胸の高鳴りを想像してみてください。まさに、日本の稲作の未来を手にした瞬間だったのです。

阿部亀治という人物
阿部亀治は慶応4年(明治元年、1868年)3月9日生まれ。農家の長男として育ち、家計の都合で12歳という若さで学校を去り、農業に従事することになりました。しかし、学びへの意欲は人一倍強く、独学で農業技術を研究し続けました。
当時の庄内地方は、湿田ばかりで収穫も少なく、農民の暮らしは決して楽ではありませんでした。しかし亀治は、新しい技術に敏感で、進取の気性に富んだ青年でした。17歳の時には政府の「済急趣意書」に感銘を受け、先進地の乾田馬耕技術を学び、村の人々の反対を押し切ってでもその普及に努めました。
<乾田馬耕への挑戦>
当時の水田は一年中水が張られており、「田の水を抜くと罰があたる」とまで言われていました。亀治が田んぼの水を抜いて乾田化し、表面にひび割れができた様子を見て、村人たちは「亀がタンボに亀の甲をつくった!」とはやし立てたそうです。しかし、亀治はそんな声に耳を貸さず、信念を貫き通しました。
このエピソードからも分かるように、亀治は単なる頑固者ではなく、科学的な思考と深い洞察力を持った農民でした。そして何より、「農業で人々を幸せにしたい」という強い使命感を持っていました。だからこそ、あの三本の稲穂に未来を託すことができたのです。

品種固定への道のり
翌明治27年、亀治は大切に保管していた三本の稲穂から採れた種籾を、小さな試験田に蒔きました。しかし、品種の固定は想像以上に困難な作業でした。
最初の年、芽を出した苗には様々な特性が現れました。親の性質を受け継いだもの、そうでないもの。亀治は一株一株を丁寧に観察し、最も優秀な特性を示す株を選び抜きました。そして、その株から採れた種籾を翌年蒔く。この作業を4年間、根気強く続けたのです。
「思うまま 道はかどらぬ 稲見かな」
亀治は俳号を「花酔」と称し、俳句を詠む文化人でもありました。この句からは、理想的な稲を作り上げることの困難さと、それでも諦めない強い意志が伝わってきます。毎日田んぼに通い、一本一本の稲の成長を見守る亀治の姿が目に浮かびます。
苗の密植度、水の管理、肥料の配合―すべてを試行錯誤しながら、何度も失敗を重ねました。しかし、亀治の情熱は冷めることがありませんでした。乾田馬耕の技術と組み合わせながら、この新しい品種に最適な栽培法を編み出していったのです。
明治30年―真価が証明された年
そして運命の明治30年(1897年)。この年もまた冷害に見舞われましたが、亀治が4年間かけて固定した新品種だけは、見事な黄金の稲穂を実らせました。周囲の田んぼが青立ちする中、亀治の田だけが豊作となったのです。
この光景を見た村人たちは驚嘆しました。そして、亀治の努力がついに実を結んだことを理解したのです。新品種の素晴らしさが実証された瞬間でした。
「亀ノ王」から「亀ノ尾」へ
新品種の価値が証明されると、亀治の友人である太田頼吉が命名を申し出ました。亀治が作り上げた稲の王という意味で「亀ノ王」と名付けようとしたのです。
しかし、亀治は「王ではあまりにも僭越です。せいぜい尻尾程度のものでしょう。」として、「亀ノ尾」と名付けました。
この謙虚さこそが、亀治の人柄を物語っています。しかしその後、「亀ノ尾」はまさに稲の王となっていくのです。
この命名エピソードは、単なる美談ではありません。亀治の謙虚で誠実な人柄が、後の亀ノ尾の普及に大きく影響することになります。利益を求めず、純粋に農業の発展を願う亀治の姿勢が、多くの人々の心を動かしたのです。
全国への広がり―三大水稲品種へ
亀ノ尾の評判は瞬く間に広がりました。冷害に強く、多収で、しかも食味が良い―こんな理想的な品種を、農民たちが求めないはずがありませんでした。
各地から種籾を分けて欲しいという要請が殺到しました。亀治の対応は実に気前の良いものでした。「うちの米が良くて作るなら、代金はいいから」と無料で譲ったり、「代金は後で送る」と言われたまま送られてこなくても決して怒ることはありませんでした。
また、明治38年、宮城・福島が大凶作に陥った際、庄内に多量の種子購入申し込みがありました。その中に亀ノ尾の注文も大量にありましたが、亀治は品種の質の維持のため、精選した種子1斗を宮城県庁に無償で寄付し、同時に東田川郡農会にも同種1斗を寄付しました。
亀治は毎年20石から40石余りの種籾を交換し、品種の質の維持に努めました。品種の劣化を防ぐため、厳密な抜穂選抜を続け、純粋な亀ノ尾の特性を守り抜いたのです。
その結果、亀ノ尾は明治末から大正時代にかけて爆発的に普及しました。東北・北陸地方を中心に栽培が広がり、大正14年(1925年)には朝鮮半島も含めて最高20万ヘクタールまで普及。「愛国」「神力」と並んで、日本三大水稲品種の一つに数えられるまでになりました。
現代品種へと受け継がれた亀の尾のDNA
昭和に入ると、公設の農事試験場で組織的な品種改良が始まり、多肥多収の新品種が次々と開発されました。多肥に弱い性質を持つ亀の尾は、主食用米としての地位を新品種に譲ることになります。
しかし、亀の尾の遺伝子は決して消えることはありませんでした。それどころか、現在私たちが食べているお米の多くに、亀の尾のDNAが受け継がれているのです。
<亀の尾の遺伝的影響を受けた主要品種>
コシヒカリ:日本で最も多く栽培される品種
ササニシキ:かつての二大品種の一つ
ひとめぼれ:東北地方の主力品種
あきたこまち:秋田県の代表品種
はえぬき:山形県の主力品種
つや姫:山形県の最新ブランド米
これらの品種の系譜を辿ると、必ず亀の尾に行き着きます。まさに現代米のルーツと言えるでしょう。
特に興味深いのは、コシヒカリとササニシキという、かつての日本米界の両雄が、ともに亀の尾の血を受け継いでいることです。しかも近い親戚でありながら、全く異なる特性と食味を持っています。これは亀の尾の遺伝的多様性の豊かさを物語っています。
酒米としての復活
主食用米としての役目を終えた亀の尾は、1970年代にはコシヒカリやササニシキに取って代わられ、その姿を消したのでした。しかし、その後思わぬ形で復活を遂げています。それが酒米としての再評価です。
亀の尾は粒が大きく、タンパク質含有量が適度で、酒造りに理想的な特性を持っていることが分かってきました。特に、心白の発現が良く、麹菌の繁殖に適している点が高く評価されています。
山形県庄内町の鯉川酒造を皮切りに、現在では全国30数社の酒蔵が亀ノ尾を使った大吟醸酒を醸造しています。その酒質は「幻の酒米が生む至高の味」として、日本酒愛好家から絶賛されています。
酒米としての亀の尾が生み出す日本酒は、繊細で上品な味わいが特徴です。雑味が少なく、米本来の旨味が感じられる、まさに「米の個性」が活かされた酒質となります。これは、亀治が追求した「本物の稲」の姿そのものかもしれません。
現代の亀の尾栽培では、農薬や化学肥料を使わない自然栽培が主流となっています。これは、亀治が育成した当時の栽培環境に近く、亀の尾本来の特性を発揮させることができます。また、自家採種を続けることで、その土地に適応した独自の特性を持つ亀の尾を育てることも可能です。
私たち「いちたね」でも、亀の尾の種を大切に保存し、栽培している農家から仕入れさせていただいています。一粒の種が未来の食を支える可能性を秘めている、亀治の発見から130年経った今も、その精神は受け継がれているのです。
おわりに
明治26年、阿部亀治が立谷沢村で発見した三本の稲穂。それは単なる偶然の産物ではなく、観察眼と洞察力、そして何より「より良い稲を作りたい」という純粋な想いがあったからこそ見つけることができた、奇跡的な発見だったのではないでしょうか。
亀治の4年間にわたる品種固定の努力、謙虚でありながら信念を貫く姿勢、利益よりも農業の発展を優先する精神性。これらすべてが相まって、亀の尾という世紀の大品種が生まれました。
そして現在、私たちが毎日口にしているお米の多くに、亀の尾の遺伝子が受け継がれています。コシヒカリを食べるとき、ササニシキを食べるとき、そこには130年前の山形の田んぼで輝いていた三本の稲穂の記憶が刻まれているのです。
また、日本は稲の国でありながら、戦争中に稲の記録や文献の多くが燃えてしまい、事実がわからないことも少なくありません。それよりも前、織田信長の合戦で焼き討ちに遭い、家系図が燃えてしまったため、記録があるところから数えて何代目としている農家さんもあります。
つまり、亀の尾のように誕生から現代に至るまでのストーリーが受け継がれているということも大切にしたい稲の記憶です。
在来種・原種に近い昔ながらの米を扱う私たちにとって、亀の尾の物語は特別な意味を持ちます。それは、一人の農民の情熱と努力が、いかに多くの人々の食を支え、未来を変えることができるかを示す、素晴らしい実例だからです。
現代においても、まだ見つけられていない素晴らしい特性を持った稲が、どこかの田んぼで静かに実っているかもしれません。大切なのは、亀治のような観察眼と情熱を持ち続けること。そして、先人たちが残してくれた貴重な遺伝資源を、次の世代に確実に受け継いでいくことだと思います。
なお、当店で取り扱い中の「亀の尾」は、種子は販売されずつくり手からつくり手へ受け継がれているもので、「米品種判別検査」によるDNA分析もできないほど古い品種であるため、生産者に入手経路をヒアリングした上で当店では販売をしております。
出典(参考文献・資料)
『日本の稲作文化』農林水産省 農業生産局資料
山形県立庄内農業高等学校「亀の尾研究会」公開資料
『稲の日本史―品種改良と農業社会』吉田茂著(農山漁村文化協会, 1997)
『亀ノ尾の記録』阿部家文書(庄内町歴史民俗資料館所蔵)
『日本の酒米事典』日本醸造協会
漫画『夏子の酒』尾瀬あきら(講談社)
『稲 品種改良の系譜』菅洋著(法政大学出版局,1998)