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2025/07/17 19:00

【種一揆】 第八話 「平賀源内と土用の丑」

「土用の丑の日にはうなぎを食べる」。
今では日本の夏の風物詩のようなこの風習が、江戸時代のとある人物のひらめきから生まれたことをご存知でしょうか?

その人物こそ、発明家にして戯作者、コピーライターの先駆けともいえる平賀源内(ひらがげんない)。
江戸時代の天才マルチクリエイターの仕事が、現代まで続く「うなぎ文化」の礎となっているのです。

そして、うなぎを語る上で忘れてはならないのが「お米」の存在。
今回は、昔ながらのお米を扱う米屋の視点から、うなぎとごはんの“黄金の組み合わせ”を、少しだけ深掘りしてみたいと思います。

夏に売れないうなぎを、売れるようにした男

江戸中期、あるうなぎ屋が源内にこう相談したといいます。

「先生、夏になるとうなぎが売れませぬ…」

当時、夏場のうなぎは脂が少なく、生臭さが出やすいこともあり、売り上げが落ちていたそうです。

そこで源内が提案したのが、「本日 土用丑の日」と書いた札を店先に掲げること。
この一文が話題を呼び、店は大繁盛。以降、「土用の丑=うなぎ」のイメージが定着していったと伝えられています。

まさに、江戸のコピーライティングの力。
現代のマーケティングにも通じる発想です。

なぜ「丑の日」にうなぎなのか

実は、当時の人々には「丑の日には“う”のつくものを食べると夏負けしない」という民間信仰がありました。
うなぎ、梅干し、うどん…。つまり、すでにある習慣に、商品を上手に結びつけたわけです。

さらに、うなぎは栄養価が高く、ビタミンAやカルシウム、良質なたんぱく質を含み、夏バテ予防にもぴったりの食材。
源内は本草学(当時の薬学)にも通じていた人物ですから、宣伝としてだけでなく、実用面でも「正解」だったのでしょう。

うなぎ丼の誕生と、ごはんの存在感

うなぎ丼、つまり現在の「うな丼」や「うな重」は、幕末〜明治初期にかけて、江戸の屋台などで登場したといわれています。
蒲焼をごはんに乗せて手軽に食べられるこの形が、爆発的な人気を呼び、庶民の間に広まりました。

それまでは、蒲焼きとうなぎ飯は別々に提供されるのが普通だったとか。
つまり、「うなぎ+ごはん」を一体化させた発明は、江戸の知恵と合理性の賜物でもあります。

そしてこの“丼文化”は、江戸庶民の主食である お米 なくしては成立しないものです。

昔ながらのお米と合わせて楽しむ

「うなぎには、どんなお米を合わせようか」
そんなことを考えるのもまた、食の楽しみのひとつではないでしょうか。

私たちが扱う 原種や在来種に近い昔ながらのお米 は、現代の改良米よりも粘りが控えめで、噛むほどにほのかな甘みや旨みが広がります。
たれの甘辛さやうなぎの香ばしさと重なり合っても、お米自身の味わいが静かに顔を出す──そんなところが魅力です。

また、しゃっきりとした粒立ちで、丼ものにしてもべちゃっとせず、ごはん一粒一粒が生き生きとしています。
江戸のうなぎ屋で出されていたごはんも、きっとこうしたお米に近かったのではないかと想像しています。

現代のお米のような“もっちり”とはまた異なる、あっさりとしながら滋味深い昔ながらのお米。
うなぎの濃厚な味わいのそばにそっと寄り添う、そんな風情を楽しんでいただけたらと思います。

おわりに

うなぎの味を引き立てるごはん、
ごはんの良さを引き出すうなぎ。

両者がそろって初めて完成する「うな丼」という食文化は、まさに“和食の知恵の結晶”といえるかもしれません。

そして、そんなうなぎ文化の陰には、江戸の知恵者・平賀源内の存在があるというのもまた、おもしろい話です。

今夏の丑の日は、うなぎだけでなく、お米にもこだわってみませんか?
きっと、いつもより一口ひとくちが豊かに感じられるはずです。